偉人達の健康法
偉大なことを成し遂げるには、まずは毎日の健康管理が大切!?昔の人たちは、さまざまな健康法を試してきましたが、それらは現代でも通用するものが少なくありません。今回は、平安時代の女流作家である紫式部と、世界三大美人の一人にも数えられた楊貴妃の健康法をのぞいてみましょう。
鰯の頭も信心から?『紫式部といわし健康法』
平安時代の大恋愛小説「源氏物語」の作者として知られる紫式部。実は、彼女は大の鰯好きとしても有名で、「鮎よりもおいしい」と書き残しているほどです。しかし、鰯は鮮度落ちが早く傷みやすい上、鰯という名前が「賎し(いやし)」につながるというので、当時の貴族の食卓に上ることはほとんどありませんでした。
ある日のこと、紫式部が鰯をこっそり焼いて食べていたところ、間の悪いことに、夫の藤原宣孝に見つかってしまいました。「何でそんな賎しい魚を食べるんだ」とカンカンになって怒る夫に、紫式部は「日の本に流行らせ給ふ石清水 参らぬ人はあらじぞと思ふ」(いま、日本中で流行しているのが石清水(いわし(鰯)みず)参りです。参拝しない人はいないでしょう)とやり返したとか。まさに大作家らしい当意即妙の受け答え。さすがの宣孝もそれ以上何も言えなかったことでしょう。
安時代の食事は、朝10時頃と夕方4時頃の1日2食であったといわれています。当時、肉体労働を行なう者は、正式な食事以外にも握り飯をとるなど間食をしていました。主食は、裕福な貴族はお米、庶民は粟や稗、麦などの雑穀、副食には、野菜、魚介を食べていました。紫式部は、大の鰯好きだったといいますから写真ような食事をとっていたのではないでしょうか。
鰯には、脳を活性化させて頭の働きを良くするDHA(ドコサヘキサエン酸)や骨を丈夫にするビタミンD、動脈硬化を予防して血液をさらさらにするEPA(エイコサペンタエン酸)など、健康維持に欠かせない栄養素がいっぱい詰まっています。紫式部が、歴史に名を残す傑作を書き上げたのも毎日のように鰯を食べていたからこそ!?ぜひ、みなさんも鰯パワーを試してみてはいかがでしょうか。
紫式部こぼれ話「源氏物語を生み出した名編集者は?」
紫式部は22歳で結婚しますが、夫の宣孝はそのわずか2年後に他界してしまいます。残された愛娘、賢子の傷心を慰めるために、彼女は夢のようなおとぎ話を書き綴りました。母親を失った幼いお姫さまが、白面の貴公子と出会って素敵な女性に成長していくシンデレラ物語…。のちの源氏物語「若紫の巻」です。
ところが、時の右大臣・藤原道長が、紫式部の優れた文才を見抜き、この物語を一条天皇の中宮で娘の彰子に差し出したために、彼女は一気に大作家として有名になってしまいました。道長は紫式部が隠していた下書きまで取りあげ、続きを書くことをせかしたといいますから、よほど気に入っていたのでしょう。不朽の名作「源氏物語」誕生の陰には、藤原道長という名編集者がいたのです。
美味しく飲んで健康美人『楊貴妃』
世界三大美人に数えられ、数々の伝説を残す楊貴妃。実は彼女は、その若さと美貌を保つために、人知れず努力を重ねていたのです。そんな楊貴妃の健康法に迫ります。
数あるお酒の中でも、深みのあるまろやかな甘さと芳醇な香りで知られる桂花陳酒(けいかちんしゅ)。今から約1300年前、唐の玄宗皇帝の愛姫だった楊貴妃によって考えられたといわれています。
彼女は、自分の美と健康をいつまでも保つために、さまざまな種類の薬膳薬酒を試しましたが、いずれも満足できるようなものはありません。「それなら自分で作ってしまおう−」というわけで、古から漢方薬の素材として珍重されてきたキンモクセイに注目。お気に入りの白葡萄酒にキンモクセイの花びらを浸して3年間熟成させたものが、楊貴妃オリジナルの桂花陳酒だったのです。
キンモクセイにはリラックス効果があり、ビタミンCが多く含まれることから、肌荒れやシミ・ソバカスを予防するといわれています。楊貴妃はお肌の手入れにもかなり気を遣っていたといいますから、まさに彼女にとって理想の健康飲料だったのでしょう。
楊貴妃はまた、南中国原産の果実ライチ(茘枝)が大好物でした。ライチにはダイエットの効果があるといわれますが、長安の都では採れなかったので、はるばる何百キロも離れた場所から早馬で運ばせたのだとか。そのため、彼女はライチ姫とも呼ばれていました。世界三大美女の一人として、現代に語り継がれる楊貴妃。その妖艶なイメージとは裏腹に、玄宗皇帝の寵愛をつなぎ止めようと努力を重ねたひたむきな横顔が思い浮かぶようです。
楊貴妃こぼれ話『傾国の美人』
楊貴妃は花鳥使という宮廷のスカウトによって見出された女性です。最初は玄宗皇帝の皇太子妃として迎えられましたが、あまりの美しさゆえに息子から引き離して自分の妃にしてしまったといわれています。ときに楊貴妃22歳、玄宗皇帝56歳のことでした。
しかし、玄宗皇帝はやがて政治を顧みなくなり、その後勃発した安禄山の乱によって長安の都を追われてしまいます。近衛兵からの反乱の責任も問い詰められ、心ならずも楊貴妃に死罪を命ずる玄宗皇帝。このとき楊貴妃はまだ38歳の若さでした。
二人のラブロマンスは白居易の有名な叙情詩「長恨歌」などにも歌い綴られ、1300年の時を経た今も私達の胸に悲しく響きます。